-
月に叢雲
-
2018.01.31 Wednesday 22:16
大阪は絶賛曇り空
こんなときは
邪魔するものの嫉妬心に
寧ろ心を寄せてみる -
日生劇場終わり
-
2018.01.30 Tuesday 00:19
『黒蜥蜴』@日生劇場終わりまして、残すは1日から5日まで梅田芸術劇場にて。昨年12月稽古始めからここまであっという間でした。風に乗って種を巻き、風と共に去っていったルボーさん。大地に確かな芽を出すのは残された私たち全ての使命であり、豊かな権利でもあります。
ルボーさんは三島黒蜥蜴から「愛についての物語」を掘り起こしたように感じます。三島は時にその知性でもって私たちをどこまでも翻弄します。だからこそ、ルボーさんはそれを紐解く議論の中心に「愛」を置きました。多国籍で向き合えばこその発見だろうと思います。
うっとりしたり、ハッとしたり。皮肉を言われ、核心かなと思うと、全部冗談だと笑われたり。解りにくいと思いきや解りやすい。解りやすいと思いきや解りにくい。三島の黒蜥蜴にはそんなところがあります。現代において大衆的な興業にはお世辞にも乗りにくいその作家性は、江戸川乱歩の世界を借りて、いま私たちにどう映るのか。日々興味がつきません。
色々な意味で一筋縄ではいかない作品になっていると思います。物議を醸してこそかなという気もしますので、こういうものこそ、あまり多勢の感想に流されず、それぞれの眼で見て持ち帰って頂きたいなと思う日々です。巻かれた種が花をつけるのは舞台の上ではありません。観たひと一人一人の記憶と心の中なのです。そんな風に。思う日々です。そんな風に。願う日々です。 -
『テロ』
-
2018.01.26 Friday 00:49「演劇とは議論である」について2日目。テロ。アンチゴーヌからのテロは脳みそに潤滑油が残っていて良いです。
流石にすぐにはまとまりませんが、血圧だけは異常に高ぶっているので、少し書き散らかします。
共感、同化、同調、という作用が劇場にはあって、役者もそれを使うし、良い役者の条件として今でもメジャーです。ですが演劇が産まれた古代ギリシャの哲学者、プラトンはこの作用によって演劇が駄目になったと主張します。どういう事でしょうか。そもそも古代ギリシャにおいて演劇は哲学と同義で(作家はみな哲学者)、実生活の問題を解決するためにみんなで集まって知恵を持ち寄る「会議」でした。シアターの語源がテアトロンで、観客席を指す言葉。劇場の主体が観客である、というのはそのことです。
プラトンの批判を簡単にまとめると、共感、同化、同調作用により観客が受動的になってしまう。ということです。全員に主体性がなければ「会議」になりません。役者の感情にのめり込んでうっとりしている内に、何を話し合うべきだったのかを忘れてしまう。それでは社会が良くなりません。哲学者失格です。二千年以上前から、演劇はそういう矛盾と宿命を背負っていました。スタニスラフスキーさんもブレヒトさんも色々なやり方でその矛盾を覆す方法を見つけようとした人です。ですが、資本主義社会が訪れ、個人主義、自由主義を経て哲学そのものが力を失い、市場経済の中に組み込まれると必然的に演劇はその「会議」としての役割を追われます。この時代に僕たちはプラトンの批判に耐えうる演劇を産み出すことはとても困難なのです。
さて、で、それはいいんです。だからって今さら高尚な演劇なんて僕だってごめんです。この時代、高いお金を払って、どうして小難しい説教を聞く必要がありますか。同意します。
ただ気になることはあります。いつからか、「考えさせる演劇」と「楽しむ演劇」を分けて考える、というのが一般的になってきていることです。これはちょっと同意出来ません。なんとなくですが、「ストレートプレイ」と「ミュージカル」という言葉で分ける時も、単にそのくらいの意味で使う人が多いような印象を受けます。その考えのもとでは「共感出来るかどうか」が観劇の大切な要素になり、「好きか嫌いか」が満足の支柱になってきます。
例えば「考えるのが嫌い」。誰だってそうです。例えば注射が好きな人はいません、でも病気は治したいとみんな思います。だったら我慢して注射を打つのではなく、僕たちは痛くない注射で治す方法を考えなくてはいけません。それが演劇です。
劇場は「感じることで考える」場所だと僕は思うのです。「考える」ことと「感じる」ことを分けるのは危険です。それは「感じてもいないのに考える」、「感じたから満足して何も考えない」のどちらかをしか産みません。もっと生産的なのは、「感じたことによって考え出す」です。そういう知恵を先達の演劇人たちは残してくれています。
ここまできてようやく感想です。アンチゴーヌとテロは、実に沢山のことを感じさせてくれて、さらにその先の「考える」筋道を与えてくれました。痛くない注射でした。役者に強い感情を焚き付けさせながらも、常に甘くない議論から目を背けさせない、その清廉な態度を感じとりました。本来議論も哲学も、必ずしも娯楽から引き離すべきものではありません。「人が人を見る」という行為にはその全てが含まれるからです。ただそういうものを創り出すには強い信念と、卓越した技術と、何より観客への信頼が必要です。この時代にそれが実現するのはとても稀なことのように思います。二日間(たまたまですが)、それが見事に成功している演劇に立ち会えて大変勉強になりました。
そして今、当然思うのは三島由紀夫のことです。三島こそ究極「議論」のひとだと思うからです。黒蜥蜴がある種王道のエンターテイメントの衣を纏い、その下でとんでもない議論を吹っ掛けている。あまりにも切実で、煮詰まったその議論は、彼の命を奪う程でした。僕たちはそこに何をみるのか。日生劇場という華やかな場所で、三島由紀夫の「議論」がどこまで色濃く現れるのか、僕たちは試されているような気がします。 -
『アンチゴーヌ』
-
2018.01.24 Wednesday 22:08上手い人の本気の芸を味わうのは幸せだ。そしてその芸の全てが純粋に演劇のためだけに余すところなく注がれ、それがどこまでも積み上がった時、観ている人間は役者も登場人物も飛び越えて、その戯曲が血を吐く「議論」そのものに叩き込まれる事になる。全ての世間的な個人が消え失せて、「わたしたち」について考える時間が訪れる。ああ、これが演劇だ。と思わされた。この議論を経て、僕の生活が大きく変わるわけじゃない。でも、「Yes」と言う人の真意に目を凝らし、「No」と言う人の小さな声に耳を傾けてみよう、とほんの少しだけ思える。もう少しだけ責任を持って生きてみよう、という気になる。そして、僕もこんな風に上手くなりたいと心から思う。そんな気になる。なりました。ありがとうございました。
-
応援演説
-
2018.01.12 Friday 11:10次期新国立劇場、演劇芸術監督に就任される小川絵梨子さん、その一年目のラインナップとメッセージが公開されています。
http://www.nntt.jac.go.jp/release/detail/23_011682.html
公共という立場から「演劇」の今と未来を考え、実践し、開拓する。その活動が1人でも多くの人に支持され、そして1つでも多く実を結ぶことを心から願っています。
「演劇が社会にもたらす有用性」とは一体何でしょうか。僕なんかがひとり、考えても考えても答えは出ません。ですが考えるのをやめた時、いよいよ「娯楽」として消費される以外の道は本当に絶たれてしまうような気がします。「娯楽」を否定するつもりはありません。ですが、人は娯楽だけでは生きて行けないのもまた事実です。
僕たちの社会には、生活を「労働」と「娯楽」に分けてバランスを取る、そういう価値観があるように思います。「仕事」と「遊び」と言ってもいいです。
でも同時に、「遊び心を持った仕事」や「誰かのためになる遊び」があったりします。そこには「効率」や「成果」とは無縁の豊かさがあります。
「仕事に戻るための娯楽」も必要ですが、同じくらい、「豊かな仕事を産み出すための遊び」も必要なのだと思います。そして後者は「演劇が持つ社会への有用性」と呼べるものの一つではないかと思います。
劇場の中で完結することなく、日常生活にきちんと影響を及ぼす、豊かな生を考える知恵となり得る演劇を、僕は僕のいる場所から考え続けたいと思います。
同時代を生きる人間の一人として、小川絵梨子さんの仕事を万感の思いを込めて応援しています。 -
日生劇場
-
2018.01.08 Monday 19:03
学生時代、敷居が高くて近寄る事もなかった、都内でも帝劇に並ぶ歴史ある屈指の大劇場。席数はおよそ1300。セリフ劇でもマイクは必須。とはいえ、このサイズの劇場の中では客席と舞台の最大距離が比較的近く、空間の親密度は割合高い。古代のお城に迷い混んだような劇場の内装はまるで現代美術のような仕様。興業上どうしてもチケット代金が高くなるので観る人を選ばざるを得ないのが心苦しい。
ディズニーランドで1日遊んで飲み食いして散財したらだいたい同じくらいか。『黒蜥蜴』は休憩込みでだいたい3時間ちょっと。多分。でも演劇の真価は観た後の数日、場合によっては数年に持ち越すものだから費用対効果は人それぞれ。
三島由紀夫の痛烈な近代批判を内包する風刺エンターテイメント。夢だけど夢じゃない時間。「本物」がどこにあるのか、を探す旅。「本物」を探すにもお金がかかる時代です。「本物」は「どこかにある」のではなくて、一人一人の心の中で見出だされる物だと思います。そしてその補助線を引くのが僕たちの仕事。消費社会のその先へ、演劇は何が出来るのか。せめて1人でも多く、その問いかけが心に届くように。そのためだけに心を込めて。明日。初日です。 -
正確に名付ける努力、或いは名付けない勇気
-
2018.01.02 Tuesday 23:57
豚ホルモン(シロ=大腸)
牛だとシマチョウ
割かずに管状のままのものに、シロコロ。それが牛の小腸になると、マルチョウ。
だから、「牛のシロコロ」という表現は間違っていると思っていたけど、どうやら最近ではそんな風に言う場合もあるらしい。「白モツ」という大きな概念を流用させると何とでも言えるのか。でも、やっぱり「シロ」といえば、豚でしょ。串に刺されてるからって「タン」が「焼き鳥」だと思ってる人はもういないでしょう。そういえば「カルビ味」のお菓子を見つけた時は流石にびっくりしました。
名前は色々な場所で時と共に変化したり組み合わさったり。いつの間にか全然別の都合でまた変わったり。結果。名前はいつも、何の参考にもならない。例えば、「黒蜥蜴はストレートプレイです」。この言葉は、何一つ作品を説明しません。「今日のサラダは野菜です」くらい意味がありません。それどころか、作品というものの本質を見失わせる危険な言葉です。と僕は思います。
豚シロは、シマチョウより脂分が少なくあっさりしていて、その独特な臭みが食欲を刺激します。形が似てるものはたくさんあるけど、味は随分違うものです。
あけましておめでとうございます。 - ←back 1/1 pages next→