「分かる」事と「知る」事について。
「知る」は体験
「分かる」は想像
問題は、
「分かった気になる」
事への危機感に端を発す。
見るとやるとは大違い、とか。例えば。
想像というのは無敵なので、知らない事でも分かってしまう時がある。これがいわゆる「分かった気になる」。
「分かった!」と思った時なんて、その興奮が強ければ強い時ほど、後々考えてみると何も分かってなかった、なんて事は良くある。エクスタシーに支配されてる状態。
世界中が分かった気にさせようとあらゆる手を使ってくるこんな世の中で、しかも表現なんて曖昧なものを生業にしようとするからには、そりゃもうよっぽど疑ぐり深い目が必要になる。自分を。疑うという事。それは本当に自分のものなのか、という事。さぁ、どうすればそんな事が出来るのか。
「分かる」の語源は「ワケル」で物事の分類に因む言葉だといつか広田氏がブログで書いていた。本当だとするとなるほど「分かる」は「ワケル」に過ぎず、ワケた後でその一つ一つを「知る」という行為がまだ残ってる。「分かる」で終わりにしちゃいけない。次に必要なのは検証と実験。そしてまた「分からなく」なって、「ワケ」直し、検証。実験。の繰り返し。それだけが物事を前に進める。余談ですが、聞くにつけイチローは延々とそれだけをやっています。そしてそれをひとは努力と呼びます。
特に今を生きる忙しい僕たちはなるべく時間を使いたくないから、検証とか実験を良くサボる。「分かった」んだから良しとする。少しは意味があるような気になる。でも「知る」のない「分かる」に意味なんてない。「分かる」は、「知る」を増やすための一時的な手段でしかない、という事。
もちろん、「知る」事に終わりはないし、生きている以上どこかで「ワケ」て言語やルールにしなきゃいけない。しかし、それでも、「知らないくせに分かったフリをしているんだ」という事をいつも忘れてはいけない。何かにこだわった所で、知れば自然に出てくるものがある。知らないくせにあれやこれや考えてもあまり意味がない。という事。考えても分からない事は知る事で進む。
そしてその時点で自分が何を「知っていて」何を「知らない」のかちゃんと見つめられる姿勢の事を、誠実、勇気、或いは謙虚とひとは呼びます。それはとても怖い事。素直、も親戚です。
いまさらだけど、ここで問題にしている「知る」というのはいわゆる情報としての「知識」の事ではなくて、むしろ生活の中の身体感覚としての「知る」。どこにでもあってかつ見つけにくいもの。人と人との間に潜む。言葉にならない、そんなはずじゃなかった沢山のものたち。自分の中に巣くう、こんなはずじゃない沢山のものたち。
「知る」は身体に落ちる
「分かる」は言語に落ちる
分かるという言葉には、「なんとなく」分かるとか「とりあえず」分かる、「一応」分かった、或いは「超」分かった。どれも前に感想がつく事が多い。それってつまり、まだはっきりしていないって事。「多分、超分かった」みたいのが成立するのはそんなわけ。
対して「知る」は、身をもって知る、痛みを知る、思い知る。己を、知る。一見後ろ向きな感じばっかり並ぶのには当然の訳がある。これらはシンプルな事象。事実。感想も言語も分析も入り込む余地はない。しかも一度からだで「知った」事は自転車の乗り方のように死ぬまで忘れる事はない。
既にお分かりのように、僕は「知る」をこそ賛美したい。生活の中にある身体感覚としての「知る」を。あえて悪い言葉で言うと「あきらめ」しかしこだわりをほぐしてくれる、厳しくも優しい「知る」を。現実を。
沢山の事を分かろうとするよりも、まず沢山の事を知った方がいい。僕はそう思う。分かろうとするエクスタシーよりも知ろうとする努力を。知るためにかける時間をこそ僕は大切にしていきたい。そうする事で健康的に自分を疑い続け、こだわりをほぐし、その都度「知っている」事だけを表現したい。
えー
なんだこれ
まとめの一句、
いきます。
何ごとも
やってみなけりゃ
分からない
ま、そういう事だぁ!