久しぶりに劇団の会議に参加した。
観客に作品を届けるためには何をするべきか、
もっと観客の視点に立って作品を創るべきじゃないか、
表現とは何か、エンターテイメントとは何か、
などの議論が繰り広げられた。
個人的に思うことの多い一日だったので、感じたことをまとめてみたいと思う。
あくまでこれは一個人としての考え方であって会議の結論や劇団総意ではない。
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まるで修行僧のように自己の内部に問いかけ、自己完結的な表現を自己完結的に行なう、そういう様子を指して「求道精神」と私たちの議論は名づけてみた。「求道精神」にのっとった表現はほとんどの観客にとって理解しがたく、特に客席に長時間縛り付けるような舞台演劇において、それらは自己満足的な表現だとお叱りを受けることが多い。そして、もっとお客さんの気持ちを考えないと!お客さんがどうすればより楽しめるのか考えないと!という事になる。
だが、それは果たして本当に的を射た議論なのだろうか。
「求道」をやめて「エンターテイン」に徹することが必ずしも観客を楽しませることには繋がらないんじゃないのかと僕は思う。むしろ地道で弛まぬ求道(とそれに賭ける姿勢)こそが、人を真にエンターテインさせるはずなのだ。
人を笑わせようと思ったらまず笑われるくらい真剣にやれ、というのがお笑いの世界の鉄則だとよく耳にする。普段自分が考えるはずもない、理解も共感もできないはずの事が、そこで真剣に追求されている、その姿勢に人は涙を流して笑うんだろう。理解できる共感できるであろう事を見越した芸はおそらくその世界では見向きもされない。理解できないものにこそ、人は興味を持つのだ。そこにはどうやらリアリティがあるような気がする、から覗きたくなるんだ。あぁそんな見方もあったんだと心が動くんだ。
つまり、
『彼らはこんな事について求道しているらしい』
その事が分かったとき、
人は感動し、エンターテインされ、心を動かされる
自己満足的で良く分からなかった、と指摘を受ける表現は、つまり「求道」が甘かったんだという反省をすべきなのだ。「観に来てくれた人の事を考える」というのはつまり、「自分たちの求道するものをはっきりさせてまたそれをはっきりと提示してやる」ことなのだ。創作過程において「求道」が甘くなる場合は多々ある。というかほとんどの表現者は常にその風にさらされてる。その時に表現者は魂を問われる事になる。表現者の表現者としての必然を問われる事になる。そんな時こそ自分と向き合い、「我ガ求道ココニアリ」と胸を張って言えた時、ようやくそれは人に伝わる表現になるんじゃないか。どんなに質や技術が低かろうが、無知で未熟で幼稚だろうが、エゴイストだろうがナルシストだろうが、善人だろうが悪人だろうが、その時点での求道をはっきりと示すことが出来れば、人は心を動かされる。それを信じることが僕たちの職業だし、表現とはそもそもそのように無前提に許されているものだ。周りはいつでも許しているのに、自分だけがどうしても自分を許せない。だから表現は奥が深い。
求道の基本は相変わらずシンプルな問いから始められる(トウゴウ風)
「あなたにとって表現とは何ですか?」
そうした自分との向き合いが、
自己発見→自己否定→自己肯定
を経て、
許し、
許され、
ようやくその過程にある切り抜きとして作品になる。
この2・3年の間、僕は国内外の多くの表現者たちと知り合い、彼らに沢山の物を学んだ。彼らはそれぞれがそれぞれ質も分野も規模も違えど、一様に求道し、許す、という行為を繰り返している。それは並々ならぬ努力と工夫と挫折の結晶のように見える。が一方で誰にでも今すぐにでもやってしまえることのようにも見える。おそらくどちらも本当だろう。
「あなたにとって表現とは何ですか?」
この問いかけをやめた時、表現者は表現者としての資格を失う。
しかし、問いかけている内は無前提に許される。
なんとも不気味な話だが、自分の中ではこれ以上まっとうな結論はない。
あとは、問いかけるだけ。地道に。弛まぬ。求道を。
余談だが、こういった事のとどめは飲食店を営む両親に教えられた部分が大きい。彼らは「飲食店を営む」という表現者だったんだ、という事にこの年になって気が付いて涙が流れた。母親もまた「子供を育てる」という名の表現者だし、お寺の住職でさえ「仏に仕える」表現者である。彼ら彼女らは、そこに求道がある限りその資格を失うことはなく、自分を許す事によって表現を許され、表現する事によって自分を癒している。表現することによって生きている。
というわけで、
僕は、
今は、
韓国舞踊。