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バリー・ターク
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2018.04.24 Tuesday 02:38KAAT大スタジオで。相変わらず関東でも指折りの素晴らしいブラックボックス。客席数も最適。濃密で親密で逃げ場がない。大劇場でかけてしまっては台無しになる作品というものがある。今日のはまさにそれ。このキャストでこの演目をこの空間で。公共劇場の気概と良心を見せて貰ったような気がして胸が熱い。
バリー・ターク
by エンダ・ウォルシュ
アイルランドだった。自分の国のことをこんな風に表現出来るなんて、なんというかその知性も感性も、歴史の重さも、言葉を失う。で、あらためて知らされるその深刻さに、息が出来なかった。もちろん、意味をかえてどんな世界にも置き換えて観れるんだろうし観て欲しいんだろうけど、それもこれも、まず、「あの国で、このお話」だからこそ産まれる強度がないと成り立たない。ファンタジーこそ、根っこには直視出来ないリアリティーが必要なんだと、あらためて。で、その強度をバシバシ感じられたという事は、翻訳で、こんなに離れた国で。すごいなー。製作チームの本気を感じた。惜しむらくはもっと色んな種類のお客さんが観れたらいいのに。これはもう誰のせいでもない。席数に限りがあるが故の演劇のメリットと、それを巡ってタコツボ化すること。或いはそれを避けて極端に市場から離れること。そのどちらかになってしまうのは何なのか。良いものが多様に受け取られるためにはどうするべきなのか。何をすれば良いのか。もう良く分からない。開かれた演劇、なんて夢のまた夢。見るけどね。夢。 -
赤道の下のマクベス
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2018.03.20 Tuesday 16:55
撮影で根岸季衣さんとご一緒して、今日平田満さんを拝見してお話して。心のなかでつかさんにご報告。つかさんの愛した俳優はみな激しくて人間臭くて愛らしい。透明感がある、は俳優には似つかわしくない言葉ですよね。生きているからこそ垂れ流される、澱や体臭を感じる。役が生きている。「泥臭い」という宣伝文句が例え流行らなくなったとしても、役を生かすのはいつだって、そういう澱や臭い。
そして鄭さんの作品には150%それが必要で、というかそれが主成分で、新国立のピットではやはりそれが爆発する。優しくて厳しい、哲学と文学の視座が、泥の中から立ち上ってくる光景に泣いた。「選んだのは自分」というのは、ひとごとではなかった。素晴らしかったでした。 -
『テロ』
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2018.01.26 Friday 00:49「演劇とは議論である」について2日目。テロ。アンチゴーヌからのテロは脳みそに潤滑油が残っていて良いです。
流石にすぐにはまとまりませんが、血圧だけは異常に高ぶっているので、少し書き散らかします。
共感、同化、同調、という作用が劇場にはあって、役者もそれを使うし、良い役者の条件として今でもメジャーです。ですが演劇が産まれた古代ギリシャの哲学者、プラトンはこの作用によって演劇が駄目になったと主張します。どういう事でしょうか。そもそも古代ギリシャにおいて演劇は哲学と同義で(作家はみな哲学者)、実生活の問題を解決するためにみんなで集まって知恵を持ち寄る「会議」でした。シアターの語源がテアトロンで、観客席を指す言葉。劇場の主体が観客である、というのはそのことです。
プラトンの批判を簡単にまとめると、共感、同化、同調作用により観客が受動的になってしまう。ということです。全員に主体性がなければ「会議」になりません。役者の感情にのめり込んでうっとりしている内に、何を話し合うべきだったのかを忘れてしまう。それでは社会が良くなりません。哲学者失格です。二千年以上前から、演劇はそういう矛盾と宿命を背負っていました。スタニスラフスキーさんもブレヒトさんも色々なやり方でその矛盾を覆す方法を見つけようとした人です。ですが、資本主義社会が訪れ、個人主義、自由主義を経て哲学そのものが力を失い、市場経済の中に組み込まれると必然的に演劇はその「会議」としての役割を追われます。この時代に僕たちはプラトンの批判に耐えうる演劇を産み出すことはとても困難なのです。
さて、で、それはいいんです。だからって今さら高尚な演劇なんて僕だってごめんです。この時代、高いお金を払って、どうして小難しい説教を聞く必要がありますか。同意します。
ただ気になることはあります。いつからか、「考えさせる演劇」と「楽しむ演劇」を分けて考える、というのが一般的になってきていることです。これはちょっと同意出来ません。なんとなくですが、「ストレートプレイ」と「ミュージカル」という言葉で分ける時も、単にそのくらいの意味で使う人が多いような印象を受けます。その考えのもとでは「共感出来るかどうか」が観劇の大切な要素になり、「好きか嫌いか」が満足の支柱になってきます。
例えば「考えるのが嫌い」。誰だってそうです。例えば注射が好きな人はいません、でも病気は治したいとみんな思います。だったら我慢して注射を打つのではなく、僕たちは痛くない注射で治す方法を考えなくてはいけません。それが演劇です。
劇場は「感じることで考える」場所だと僕は思うのです。「考える」ことと「感じる」ことを分けるのは危険です。それは「感じてもいないのに考える」、「感じたから満足して何も考えない」のどちらかをしか産みません。もっと生産的なのは、「感じたことによって考え出す」です。そういう知恵を先達の演劇人たちは残してくれています。
ここまできてようやく感想です。アンチゴーヌとテロは、実に沢山のことを感じさせてくれて、さらにその先の「考える」筋道を与えてくれました。痛くない注射でした。役者に強い感情を焚き付けさせながらも、常に甘くない議論から目を背けさせない、その清廉な態度を感じとりました。本来議論も哲学も、必ずしも娯楽から引き離すべきものではありません。「人が人を見る」という行為にはその全てが含まれるからです。ただそういうものを創り出すには強い信念と、卓越した技術と、何より観客への信頼が必要です。この時代にそれが実現するのはとても稀なことのように思います。二日間(たまたまですが)、それが見事に成功している演劇に立ち会えて大変勉強になりました。
そして今、当然思うのは三島由紀夫のことです。三島こそ究極「議論」のひとだと思うからです。黒蜥蜴がある種王道のエンターテイメントの衣を纏い、その下でとんでもない議論を吹っ掛けている。あまりにも切実で、煮詰まったその議論は、彼の命を奪う程でした。僕たちはそこに何をみるのか。日生劇場という華やかな場所で、三島由紀夫の「議論」がどこまで色濃く現れるのか、僕たちは試されているような気がします。 -
『アンチゴーヌ』
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2018.01.24 Wednesday 22:08上手い人の本気の芸を味わうのは幸せだ。そしてその芸の全てが純粋に演劇のためだけに余すところなく注がれ、それがどこまでも積み上がった時、観ている人間は役者も登場人物も飛び越えて、その戯曲が血を吐く「議論」そのものに叩き込まれる事になる。全ての世間的な個人が消え失せて、「わたしたち」について考える時間が訪れる。ああ、これが演劇だ。と思わされた。この議論を経て、僕の生活が大きく変わるわけじゃない。でも、「Yes」と言う人の真意に目を凝らし、「No」と言う人の小さな声に耳を傾けてみよう、とほんの少しだけ思える。もう少しだけ責任を持って生きてみよう、という気になる。そして、僕もこんな風に上手くなりたいと心から思う。そんな気になる。なりました。ありがとうございました。
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観ましたよ
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2017.12.25 Monday 00:26
ようやく東京千秋楽で観る事が出来ました。マッチ、格好いいですよ!まちこさんがね、ケトルが台に上手く嵌まらなくて「いっつも、これは!」って笑。ピルケースが上手く開かなかった時のあなたも「これは、いっつも開かないんだよ!」って。全く夫婦揃って素敵で困ります。そんな事で泣くのも、劇場では、アリですよね。あの劇場を「演劇の聖地」へと導いてきたその精神に多くを学びます。素晴らしい舞台をありがとうございました。マクドナー、キッツいっすねー!左手、もっかいやりたいです。旅公演も無事見届けられますように。 -
不在
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2017.12.02 Saturday 00:40「アーティスト」というのは作品にとってどのような役割を果たすのか。そして「アーティスト」が不在となった作品はどのような目に会うのか、それが残酷なくらい良く分かった。参考になった。裏方のエンジニアたちを取り上げたらたちまち素晴らしい演劇になるのに。
日本にだって、海もあるし山も河も、子供たちが元気に遊ぶ公園だってまだちゃんとあるのに。人工物には、「指し示す指」が必要。モノ→意味→物語、の順で、少なくとも想像力は働くはずなんだけどなぁ。それが「アーティスト」の仕事。アーティストが不在だと残念ながら作品にはならない。
恐らく、観客の水準が随分低く見積もられてる。ミュージシャンナメんな。ダンスナメんな。役者ナメんな。日本ナメんな。本当に何も無くても盛り上がれるとしたら、よっぽど時代が暗いってことになるが。そうなのかな。
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ききき
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2017.12.01 Friday 19:22
来てしまった。
来てみてしまった。 -
プルカレーテを見て
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2017.10.30 Monday 17:29僕が個人的に感じた事です。ひとつには台詞の「朗唱術」に頼らないシェイクスピアということ。当たり前の事なのですが、演劇を形作るものの中で「役者の演技」というものは単なる1つの対等な要素にしか過ぎません。美術や構成、動き、明かり、音、それに厳選された言葉だけを乗せて、十二分に、いやそれ以上に僕はリチャード三世の物語を感じる事が出来ました。その時、演技過多にならない、というのが実は演者にとってとても難しかったりします。それを難なくごく自然にやってのける技を見て非常に勉強になりました。シェイクスピアを神格化しない、適切な距離を提示するというのもとても心地よかったです。当時のイングランドの背景や文化、暮らし、というものが演劇を見ることで勉強になりました。という価値をプルカレーテは粉砕します。この話は我々にとって何なのか。それだけをただ突きつけられた気がします。僕にとっては大変なご馳走でした。ありがとうございました。
日本の演劇は良く「人を観に行く」と言われます。名のある俳優の演技を楽しみに客席に着くのは大きな喜びです。僕もそういう時があります。どちらかと言うと昔から日本の演劇にはそういった側面が強かったようで、スターシステム、とも呼ばれます。ただ西洋の演劇を輸入する時そこに捻れが生じます。日本の演劇の歴史は実はあまりそこに成功していません。今回のプルカレーテの作品は、そこに何か一石を投じて、というかヒントを頂いたような。ことシェイクスピアに関しては特に。翻訳された言葉を使って、何を表現すべきなのか。常に芯を食った表現を探して行きたいと、改めて思わされました。「この人なら凄い演技を見せてくれるに違いない」ではなく、「この人たちなら凄い演劇と出会わせてくれるかも知れない」、そんなワクワクを与えられるような作り手になるべく、頑張ります。 -
シアタートラム『チック』
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2017.08.20 Sunday 01:45『チック』観てきました。泣きました。5回。すんごい良いお芝居。すんごい良いお話。人間というものへの愛情がこれでもかというくらい、隅々まで詰まっています。世界を直視する重たくてシビアな視点と、そこを横断し、ただ受け止めるニュートラルな語り口。それによって生まれる「余白」に、観客それぞれがそれぞれの想いを乗せられる。観る人それぞれの場所を与えてくれる。奇跡のように全年齢層向け。「説明しないで感動させる」のお手本のような作品ですよ!恐らくまだ殆どの人は知らない、ドイツではとても有名な作品。これを機に、色々と形を変えて日本でも王道化して行くのは間違いないと思われます。翻訳、演出の小山さんの功績はとても大きい。素晴らしい翻訳現代劇でした。27日まで。三軒茶屋シアタートラムにて。お急ぎ下さい。
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蝶々夫人
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2017.02.18 Saturday 18:30
師匠のオペラを観てきた。
映画沈黙でも文字通り命がけだった師匠は、楽屋で元気に子役とジャンケンをしてらした。しかも勝って喜んでた。安心して涙が流れた。
旅人。ボーダレス。見えないものを見せる。師匠の口から出るその言葉はみな心から信じられる。体現しなければ意味のない事を全てやっている。教わることはまだまだ尽きない。 - ←back 1/7 pages next→